2014年9月28日日曜日

ピエール・ローラン・エマール(Pierre-Laurent Aimard)のバッハ・平均律第一巻

 ヨーロッパから帰国して一週間あまり、ようやく時差ボケから回復し始めた今日、京都コンサートホールまでフランスのピアニスト、ピエール・ローラン・エマール(Pierre-Laurent Aimard)のバッハ・平均律クラヴィア曲集第一巻全曲演奏会に行って来ました。

 実はエマールの演奏会は今月4日にも、全く同じプログラムによるベルリン公演(場所はフィルハーモニーのカンマームジークザールKammermusiksaal, フィルハーモニーの小ホールです。)も聴きました。それどころか8日にはジョナサン・ノット(Jonathan Nott)指揮,バンベルク交響楽団の演奏会でも、彼がピアノパートを担当したヘルムート・ラッヘンマン(Helmut Lachenmann, 1935- )の"Ausklang" Music for piano with orchestra [1984/85](訳語はもうちょっと考えさせてください。単なる「終末」、「音楽の終わり」という意味ではないと思うので。)も聴きました。

 さて、先のベルリンでの公演でしたが、周囲の人々の反応をみた限り、評価は分かれたようです。休憩時間に同じテーブルでコーヒーを飲んでいた時、隣のおばあちゃんに「では、音楽とともに良い夕べをお過ごしください。」とあいさつしたら、「この音楽、全然気に入らないわ。聴いていられない」という反応があり、びっくり。

 たまたま隣に座ったドイツ人の女性実業家は、「ゴリ押しがひどくて最後は崩壊していた」などと言う始末。
たしかに演奏中に席を立つ人もけっこういて、ホールはちょっと落ち着かない感じがしました。

  エマールは割と神経質なところがあるので、多分そういう雰囲気を感じたのか、ベルリンでの演奏会は後半でやや集中力をそがれたようで、最後のロ短調のフーガを弾き終えた時にもうひとつ高揚を感じませんでした。

 しかし、今日はどうだったでしょうか?

 今日は冒頭のハ長調のプレリュード(グノーがこの上に「アヴェ・マリア」のメロディーを書いたことで有名な曲。)はひとつひとつの音を確かめるかのようにゆっくり、また残す音はしっかり残し、驚くほど丁寧に弾かれました。ベルリンではここで音抜け(鍵盤を押さえたが鳴らない音)があったのですが、それもなし。そんなにゆっくり弾くと「アヴェ・マリア」は歌えないね、と言いたくなるほどゆっくり、丁寧でした。フーガも慎重に。第2番(ハ短調)はプレリュードでは両手が16分音符を連続的に弾くのですが、これまた整然としていました。

 すでにこの時点で気づいていたのが、エマールの「独特の音」です。2番のプレリュードの音は16武音符がやたらゴツゴツ・ゴツゴツ鳴るのです。これは人によっては耳障りだったかもしれません。彼の音のコントロールは実にすばらしいのですが、今回はこのゴツゴツした音が繰り返し聞かれました。

 私の座席は前半前から4列目、後半最前列だったのですが、よく見るとエマールはほとんどペダルを使っていません。いえ、一応踏むのですが、ごくごく浅く、半分も踏まずにあげていました。ですから、サステインペダルを使った音の増強も、引き伸ばしもありません。しかも、大変強靭なタッチなので人によっては音が美しくないと感じられたかもしれません。

 7番(変ホ長調)のプレリュードのように美しく流れる曲もやはりペダルを深く踏むことなく、強く、硬めの音で弾かれました。ここは少しペダルを入れると溢れるような美しさのあるところなので、本来ならペダルが欲しかったのですが、聴き終えてみれば、やはり彼のコロコロした音でも表情をコントロールすることによってとても麗しい、明るい曲となっていました。

 以下、一曲ずつ感想を書くと夜が明けるので、簡単にすませると、彼は自分の「音」に非常にこだわり、かつ自信を持っている。そして音楽には一切曖昧なところを残さず、構造をわかりすぎるほどはっきりさせる。そして音をペダルで濁すこともせず、強靭かつ繊細なタッチでプレリュードもフーガも構築して行く、そういうタイプの演奏でした。

 そして、彼は一曲一曲と真剣に取り組み、彼なりのフィロソフィーをそれぞれの曲において展開してみせました。フィロソフィーとは大げさですが、彼にはバッハのこの24曲のプレリュードとフーガに対する非常に考え抜いた結果を示していたと思われます。

 どの曲も「練習曲」ではなく、生きた個性のある曲として描かれていて、思わずほろりとしたり、感動がぐぐっと迫って来たりしました。6番(二長調)のフーガの絢爛豪華、15番(ト長調)の溌剌感、17番(変イ長調)の浮き立つような喜び、22番(変ロ短調)の荘重さとそのフーガの厳格かつ明快さ、ロ短調のフーガのちょっと変わったアーティキュレーション(これには何か理由があるに違いない。)と音で溢れかえりそうできっちり纏められた最後のフーガ、思い出せばきりがありません。

 エマールはカーターやラッヘンマンなどの現代作曲家の演奏を得意としています。このバッハの演奏(特徴ある打鍵、音色、アーティキュレーション、ほとんどペダルを使わない奏法など)を聴いてわかったのは、彼が古い音楽をひたすら学ぶことによってこのバッハ像を描いたのではなく、徹底して現代の作品と取り組み、ピアノの可能性を追求し、さらに原典に忠実にあたることによってバッハの時代の研究をも成して今の演奏にたどり着いたのであろうということです。事実、ベルリンで聴いたラッヘンマンのピアノとオーケストラとの曲も、前衛的ではあるものの、ある種手慣れた風情で「楽しみつつ」弾いていました。ピアノの鍵盤を叩くだけでなく、ピアノ線をトンカチのようなもので叩いたり、はじいたりして弾いていました。いろんな実験をしているうちに彼はバッハ演奏における現在の立ち位置にたどり着いたのでしょう。

 聴衆も、数こそ多くはありませんでしたが、エマールのひとつひとつの演奏によく聴き入り、演奏者と聞き手の間によい親和関係が醸し出されていたと思います。ベルリンの聴衆はここまであたたかくないし、平気で席を立ちますが、京都の聴衆はフレンドリーだと感じました。いや、それを感じたのは私ではなく、エマールさんご自身でしょう。

 残念なことと言えば、最後の24番の始まる前に右後方で一人拍手をした人がいて、緊張の糸が切れそうになりましたが、だいじょうぶでした。

 同じ演奏家が同じ曲を弾くのを別の場所で二度聴くという珍しい体験をしましたが、私の評価では今日のほうがベルリン公演より良かったです。