2009年10月23日金曜日

ピアニスト兼指揮者

ベルリンフィルの"Digital Concer Hall"というコンサートの生中継プラスアーカイブサイトから演奏会ごとにメールが来ます。
10月4日、ダニエル・バレンボイムが「ピアニスト」として登場し、ショパンの協奏曲を二曲とも一夜で弾くというびっくりするような演奏会が行われたので、さすがに生中継は日本では夜中なので見ないけれど、後日録画を見ようと思っていたらいきなりベリリンフルのコンサート担当からメールが来て、「バレンボイムはコンサートのライブ中継を拒否した」という知らせがありました。
どうやらライブ中継は拒否するが後日アーカイブに保存することは拒否しなかったようで、今なら全曲試聴できます。ただし、有料です。
ショパンの協奏曲2曲、聴くだけでもかなり疲れるのによくまあ演奏したものです。今年67歳になるバレンボイムですが、指揮者としてもピアニストとしても現役であることを確かめさせてくれました。
彼のショパン解釈は必ずしも私の好むところではありません(ちょっと濃い味なのとペダリングの好きでないところがある)が、よく二曲快演したものだと驚きます。
ピアニストから指揮者に転向する音楽家はけっこう多くて、クリストフ・エッシェンバッハもその典型例です。私は彼のシューベルトやシューマン、それにモーツアルトのピアノ演奏がぞっとするほど好き(笑)で、テンポの遅い楽章のさらなる「遅さ」には驚きふるえながらも最後まで聴いてしまいます。
エッシェンバッハに関して残念なのは、「私はもうピアノリサイタルをやらない」とかなり前に公言しており、ピアニストとしての彼は室内楽のメンバーか歌曲の伴奏者としてしかほとんど見ることができないことです。
昨年5月にフィラデルフィア管弦楽団の指揮者として来日した折、多忙な日程の合間に若手バイオリニスト、エリ・シューマンとのデュオコンサートを開きました。ベートーヴェン、ブラームス、クライスラーなど、どれをとっても室内楽奏者としての配慮にみちた好ましい演奏でした。
ブラームスのバイオリンソナタ第二番の冒頭部分、あまりにソフトなピアノの音で始まったので、一瞬何だかわかりませんでした。私はブラームスのこの曲、ピアノ、バイオリンの両方で練習しましたが、ピアノのパートは本当に難しく、下手をするとバイオリンを圧倒してしまうことを知っていました。
でも、エッシェンバッハはきめ細かなサポートぶりを見せて、若くて真面目そうなエリック・シューマンを引き立てていました。
おっと、脱線しました。
エッシェンバッハが今やピアニストとして登場することが少なくなったのに対し、バレンボイムは頑張っています。アシュケナージも指揮とピアノを両立しているように思います。
バレンボイムにはある種のタフさ、強さがあって、時に音楽が猛烈に重くなったり、上記のショパンの作品のように濃い味になったりするのですが、それでも最後まで聴かされてしまいます。
最近の転向組では、プレトニェフがいますが、この人はピアニストに留まったほうがいいと思います。でも、将来立派な指揮者になる可能性もゼロではないと思います。
バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハ、この三人とも歌曲の伴奏者として現役であることがCDやDVDで証明されています。
マティアス・ゲルネはアシュケナージとシューマンの歌曲を、エッシェンバッハとはシューベルトの「水車小屋」を録音しており、バレンボイムはトーマス・クヴァストホフとシューベルトの「冬の旅」をDVDに記録しています。
ここにあげたバレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハはすでに年齢的には60代後半か70代はじめですが、まだまだピアニストとしても指揮者としても最盛期を保てるものと期待しています。
しかし、どうしてバレンボイムはコンサートの生中継を拒否したのでしょう?
まさか自信がなかったから、とは思えません。本当のところを知りたいです
そうそう、画像を見てとても面白かったのは、バレンボイムは指揮台に指揮者がいるにもかかわらず、顎でオケに指示を出しているように見えたことです。本人は弾き振りのつもりだったのかもしれません。
一番の協奏曲の最後のところ、ピアノを弾き終えたあと、オケに向って大きく腕をあげて「指揮」をしていました。(笑)
当のベルリンフィルのDigital Concer Hall は以下のところにあります。
Digital Concert Hall

2009年10月20日火曜日

「森の孤独」(Waldeinsamkeit)

「森の孤独」(Waldeinsamkeit)と言えば、ロマン派の音楽の愛好家ならシューマンの「リーダークライス Op.39」の冒頭の曲、「異郷にて」(In der Fremde)を思い出すでしょう。

ドイツ文学で「森の孤独」を詠った作品としてアイヒェンドルフ(1788-1857)やハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)の詩が有名ですが、この"Waldeinsamkeit"という造語はルートヴィッヒ・ティーク(1773-1853)によるものでした。

私は卒論でティークの『ブロンドのエックベルト』について書きました。もう30年近く昔のことです。(笑)

ティークにおいて「森の孤独」は破壊的、魔的な恐ろしさを秘めながらも、誰も知る人はいないという解放感にみちたものでした。

アイヒェンドルフにおいては魔的な要素は少なくなりますが、よりロマン的な情緒をたたえていると思います。(「ロマン的」の定義に関してはまたそのうちに。:-))

私はこの曲がなぜかたまらなく好きです。決して派手な作品ではないのですが、孤独と解放感の両方をしみじみと感じることができるからです。

だいたいの意味を口語で書きますと、

「赤い稲妻の走る彼方の故郷から

雲がただよって来る。

でも父も母も遠い昔に亡くなり、

故郷では誰も私を知らない。

間もなく、ああ、間もなく静かな時がやって来る。

そしてその時私もまた憩う。そして私の上には

美しい森の孤独が音をたてている、

そしてここにおいてもまた誰も私を知らない。」

メロディーはほとんど隣の音に移るだけ(半音か全音の進行)で、9-10小節目、12-13小節目、16-17小節目にかけて、そして24節目に音の飛躍があるだけです。あとは延々と二度の進行です。

「間もなく、ああ、間もなく静かな時がやって来る。」(ここでメロディーには4度、6度の飛躍が見られます)のところで期待感をふくらませ、そして続く「その時私もまた憩う」で長調に転じて小さなクライマックスに至り、同じ「そしてその時私もまた憩う」を今度は短調でほのかな寂しさをこめて繰り返します。

このあたりになると私は胸にジーンと熱いものを感じてしまいます。こんなにシンプルな音楽なのになぜ?

それは言葉と音が非常にうまく調和しているからではないかと思います。「その時私も憩う」(da ruhe ich auch)のauchで「(ダー ルーエ イヒ) アァーォホ」(日本語のカナでドイツ語の音を書くのは無理ですのでカタカナは近似値あるいはそれ以下と思ってください)のクレッシエンドが何とも気持いいのです。

auch(アァーォホ)と言いながらぐっと自分の声を解放するような感覚がたまりません。

言葉が音とうまく結びついて独自の感興を生み出すところが他にもたくさんあります。

ところで、この曲の演奏、私は30年以上前に発売された時にドイツから個人輸入したレコード(シューマン歌曲集、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウのバリトン、クリストフ・エッシェンバッハのピアノ)を聴いてきました。CD化されてからも何百回もこの演奏を聴きました。

そしてこの曲の演奏はフィッシャー・ディースカウとエッシェンバッハでなければどうしても満足できませんでした。それはこちらの演奏です。

http://www.youtube.com/watch?v=FyL8n900RPk&feature=related

(Fischer-Dieskau, Eschenbach)

フィッシャー・ディースカウはほかのピアニストとの録音もあり、こちらギュンター・ヴァイセンボルンとの共演もなかなかです。

http://www.youtube.com/watch?v=4krruPr6KeA&feature=related

でも、私は1970年代に録音された、エッシェンバッハとの共演のほうが好きです。ピアノが細かいニュアンスをあますところなく表現していて本当に美しいのです。あとこの人のピアノには「孤独」、「憧れ」、「内面性」といったものが非常に豊かだからです。

先日マティアス・ゲルネのリサイタルでもこの曲が歌われていましたが、フィッシャー・ディースカウから離れられない私にはもの足りないのではないかと心配したのですが、実際にはフィッシャー・ディースカウとはまた違った味わいを感じました。

以下のリンクはゲルネの演奏です。ここでは原調(嬰ヘ単調)より全音下げてホ短調で歌っていますが、リサイタルではたしか原調だったと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=FyL8n900RPk&feature=related

音と言葉の調和を考えていると無数の雑文を書きたくなります。楽譜を書き込めないのが残念です。

2009年10月12日月曜日

たかがコロン(:)、されどコロン(:)

最初から重箱の隅をつつくような細かい話で恐縮ですが、シューベルトの「冬の旅」(Winterreise)の第一曲、「おやすみ」(Gute Nacht)を聴いてかなり以前から感じていたことをひとつ。

恋に破れた男が寂しく町を去って行くのですが、恋した娘への思いを断ち切れず、通りがかりに彼女の家の戸に「おやすみ」と書いてゆく、というおセンチな話で始まります。

この「通りがかりに、家の戸に君宛に『おやすみ』と書いておこう」(Schreib' im Vorübergehen

Ans Tor dir: "Gute Nacht"....)

ここ"Gute Nacht"の前のコロン(:)をきっちり意識して歌っている声楽家がいることに気付きました。

つまり、

Schreib' im Vorübergehen(通りがかりに書こう)

Ans Tor dir (君のために扉に)

の後に本当に聴き取れるか聞き取れないか寸前の短い「間」を置いて歌う人がいて、そのあまりの几帳面さと歌詞に対する配慮に感動しました。

私が今聴いているのはトーマス・グヴァストホフ(Thomas Quasthoff)の古いほうの録音ですが、この人の歌詞の扱いは本当に丁寧です。コロンの後のいわば「引用」、あるいは「台詞」に入る前に僅かな間をとって、さらに"Gute Nacht"(おやすみ)をこれまたごくごく控えめに音色を変えて、いかにも優しく歌っています。

こんなに丁寧に歌うのはクヴァストホフだけかと思ったのですが、マティアス・ゲルネ(Matthias Görne, 10月10日のコンサートに行きました!感想はいずれ。)の古い録音(ブレンデルとの共演でないほう)と、ペーター・シュライアーのリヒテルとの共演盤を聴いてみると、いずれも本当に気がつかないほどですが音色を変えたり、小さな隙間を作っているようです。シュライアー、ゲルネともに一回目の「おやすみ」はかなり明瞭に間を置いているように思います。2度目は一息に歌っているようですが。

ゲルネやクヴァストホフの師匠のフィッシャー=ディースカウの古いバージョンは手元にないのですが、ブレンデルとの共演盤では残念ながら一息で歌っています。フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」は、60年代の録音のほうが私は好きなのですが、今行方不明のためいずれ確認してみます。

ちなみにヘルムート・ホルは露骨なぐらいはっきりと間をあけて歌っています。

こんな小さなことですが、歌を練習する時には歌詞の意味やそこにこめられた想いに思いをめぐらすのは大事だと思います。

私はヴォイストレーニングとして約1年前から声楽の先生に師事していますが、歌詞を味わい、そして音として丁寧に表現することを学んでいます。

ドイツ語は私にとっては本業と直接結びついた言葉ですが、話すドイツ語と歌うドイツ語にはかなりの隔たりを感じます。

ドイツリートを注意深く聴いていると、歌を一曲仕上げるには途方もなく丁寧に練習しないといけないことがわかります。

たかがコロン(:)ですが、されどコロン(:)なのです。

細かい話で失礼致しました。

復職記念にブログ開設

慢性疲労症候群という難病で長らく休職していましたが、2009年10月1日をもって無事復職しました。

職場ではかなり「浦島花子」になっていますが、教える楽しみを再び持つことができて幸せです。

インターネット日記は1996年から断続的に書いておりましが、今回の病気休職中は更新できませんでした。(http://www.k2r.org/malte 旧ホームページ)

この機会に日常生活で感じたことを書き連ねてみようかと思います。

テーマは「音楽」と「言語」の予定ですが、さまざまなつぶやきを書いてみたいと思います。

不定期更新で、目下のところコメント機能をオフにしてあります。ご意見などはどうぞ malte@k2r.orgへお願い致します。