2017年5月13日土曜日

グランドピアノ vs アップライトピアノ


 ちょっと面白い発見があったので書きます。
 相変わらずピアノを弾く余裕のない日々を過ごしています。先日ものすごく久しぶりにピアノに向かいました。ショパンのノクターンOp.32-1,2(3月末にグリゴリー・ソコロフがアンコールで弾いて深い感銘を受けた曲。)やらマズルカ(技術的にはやさしいものの、どう弾いていいかわからず,
いつかショパンの専門の先生に習いたいです)、それに「月光の曲」。さすがに第3楽章は難しいのでちょっとなぞるだけにして、最後に第一楽章を通しました。この曲は指の訓練のために第3楽章はちょくちょく練習していたのですが、第一楽章を弾くのは30年ぶりぐらい。今持っているグランドピアノ(YAMAHAの中型で、たいした楽器ではありません)で弾くと、自分でも驚くほど音色が綺麗で、そしてペダル2本の使い分けで微妙な響きを表現できました。え!「月光」の第一楽章って、こんなに奥行きが深くて幻想的だたっけ!あと、うまくブレスを入れることで平板にならず、弾いていて初めて「うまくいった」と感じました。以前はどうもこういう遅い曲は表現が難しくて苦手でした。

 ピアノの蓋を何か月ぶりかであける時、上半身の重心を少し前において両手でEs(変ホ)の音を4オクターブのユニゾンで叩きたくなります。でも、今は「オット~、だめよん!」です。
 「英雄ポロネーズ」は昔は私の名刺代わりの曲だったのですが、何十年もきちんと練習していないので肩も腕も手も弱っています。あと、腰をいためているのでこの曲は私には負担が重すぎて途中で左手の二の腕がつったり、肩が痛くなるのです。もっと腕と足腰を鍛えて、体に力をつけてから再度チャレンジします。

 あと、ソコロフがアンコールで弾いたショパンのノクターンは、私が1970年ころに買った全音の楽譜の解説には「作品32の2曲は比較独創性に乏しく、あまり演奏されていない」と書いてありますが、それは45年前の話でしょうね。独創性が乏しいだなんてとんでもない。ショパンならではの個性(ただし、比較的単純)を感じさせる名曲です。私は昔からこの2曲がとても好きでした。Op.32-2はバレエ音楽「レ・シルフィード」でも使われた曲だと記憶しています。Op.32-1に関してあえて難を言えば、左手の伴奏に右手が乗るという単純な構造で両手が単音で大きな盛り上がりを作るとき、どうしてもテンポをいじらないと表現できないことです。内声部に何かほしかったところです。

 ピアノで嬉しいことは、何歳になってもそれなりに弾ける曲があることです。70歳になってもたぶん「月光の曲」の第1,第2楽章は弾けるでしょう。でも第3楽章は無理かも。やさしくて美しい曲をさがすこと、また筋力をつけることが目下の私の課題です。

 でも、アップライトとグランドでこれほど「月光の曲」が違って聞こえるのですから、スタインウェイやベーゼンドルファーなどで弾くとどんな素晴らしい音の絵巻を紡ぎ出すことができることでしょう!

「アルトゥール・ルビンシュタイン・国際ピアノコンクール」


 先ごろ行われた上記のコンクールの映像を見ていました。入賞者の発表が、もう長いしいろんな人が話をするし、しかもほとんどヘブライ語で、英語はほんのちょっとなので見ていてじれましたが、やっと優勝者がわかりました。


 聴衆賞とか室内楽賞とかいくつかの賞を授与されたシモン・ネーリングが優勝しました。
 おめでとう、シモン君!

 一昨年のショパンコンクールで本選まで行って選外になってしまったけれど、顔はまだ幼いところが残っているものの、手が大きくて割と余裕のある演奏をするシモン・ネーリングは見込みあり、と期待していました。

 ショパンコンクールでは、本選で(へたくそな)指揮者と妙にうまく協調できて、地元の強みだと陰口を言われたシモン君ですが、私はポロネーズはとても素晴らしいと思いました。選外になってしまったのが本当に残念でした。

 あれ以来1年半以上すぎ、幼い感じがちょっと大人になった印象を得ました。ああ、よかった、私が「この人!」と思った人がテル・アヴィヴの地で優勝できてうれしい!
いつかネーリング君をライブで聴きたいです。


https://www.youtube.com/watch?v=sND3Sa9WKRI

2017年5月10日水曜日

訳文を配ってほしいという要望


 私のドイツ語の授業では出席をGoogle Formを使ってとっている。学籍番号、学年などのほかに、「今日のキーワード」という欄を作り、その場で私が口頭で言う単語を書き取らせているが、2年生では単語ではなく、一行作文をさせている。たとえば、「連休に何をしましたか?」(これが今日の課題)。辞書、教科書、参考書など何を使ってもよい。

 まず一年生に書き取らせる単語は授業の復習あるいは予習をしていないと書けない単語なので、ここでもたもたする学生は予習・復習ができていないことがわかる。出席フォームにはタイムスタンプがつくので、誰が早く、あるいは遅く提出したかわかる。

 2年生の場合は一年生で学習した文法力が身についていないと即答できない。
実はこの出席フォームを見ただけでだいたいその学生の学力がわかってしまう。去年一年間の経験では、成績と出席フォームを提出するタイミング、そして作文の正確さとがきれいに一致した。(だから本当はあまり試験など必要ない。)


 この出席フォームには、意見や質問を書き込む欄を作ってある。2年生ではどのクラスにも全く同じ「要望」を書く学生が一人か二人いる。

 その要望とは、

 「本文の和訳をプリントして配布してほしい。」

というもの。

 私はたいていの要望には応えるようにしている。練習問題の解答集を作成したり、発音の難しい単語を録音して授業用サイトに掲載したり、たいていのことには対応する。しかし、和訳を配布せよ、という要望には断固応じない。

 なぜか?

 これはクラス全員に必ず説明することにしている。

理由はこうだ。

 「独文和訳に限らず、翻訳は<解釈>です。ドイツ語で書かれた内容をできるだけ忠実に日本語に書き換えるように努力しているけれども、違った表現もあれば訳し方もカチカチの逐語訳からなめらかな意訳もあり、意訳では逐語訳をみてドイツ語と日本語がどう対応しているかわかりにくい。私は訳すならできるだけ読みやすく、日本語らしい訳を作成する。その訳を見て、諸君は元のどの語がどう日本語に訳されているか、あるいは言い換えられているかわかるだろうか?また、文法的に文の構造がはっきりわかるだろうか?おそらく諸君はその辺を確認しないまま渡された和訳を丸暗記して試験に臨み、運よく暗記していたところが出れば一気に頭の中にためておいた訳文を書き出すだろう。そして試験が終わるときれいに忘れる。それでは一学期間授業内、授業外の学習で時間をかけて勉強したことが無駄になるではないか。ドイツ語は単位をとれただけでよいというものではない。たとえかすかでもドイツ語の印象(簡単な挨拶や文法の型、たとえば平叙文では動詞は文の要素として必ず2番目に置くとか、独立文でない副文で動詞は文末に来るとか、助動詞があれば本動詞は文末に置くとか、だいたいの構造、それに加えてドイツ語圏の国々に関する紹介や雑談)が頭に残らないと1年半から2年間ドイツ語に費やした時間は無駄である。少しで印象が残っていれば再び学習するのが大変容易になる。

 ドイツ語から日本語へのカチカチの直訳および、ドイツ語のどの語をどう訳すかについては授業で丁寧に説明している。質問があれば常に答えている。
 しかも授業はすべてビデオで撮影され、音声もきっちり入っている。わからないところはビデオで確認すればよい。あるいはメールでまたは直接私に質問してもよい。

 それでも訳文の配布を求めるならば、私は初めから訳文を配っておいて、授業中は質問を受け付けるのみにするだろう。あるいは使われている文法事項のみを説明する。どうせ訳を配るのだから。しかし、そんなものが教育と言えるだろうか?

 授業で書き写した訳文やノート(ノートを取らなくても、授業中に板書=iPad上のアプリのメモに書いたことやあらかじめ作成しておいた資料は全員に電子的に配布してスマホやコンピュータで見られるようにしてある。)を参照してわからなければどうぞ質問してください。」

 この私の言い分は屁理屈だろうか?本文書はFacebookで「全体に公開」のみならず、長らく更新していなかったブログにも掲載するつもりだ。

 異論あらば、学生さんのみならず、どなたでも私に言っていただきたいと思います。(あ、決して喧嘩腰ではありません。ご意見を賜りたいだけです。偉そうに書いてすみません。)

宛先は malte@lang.osaka-u.ac.jp です。

PS: 以前に勤務していた大学で他の先生から伺った話です。

「空爆でその町は一夜にして瓦礫の山となった。」

これをクラスの大半が試験で、

「空爆でその町は一夜にして枯れ木の山となった。」


と書いたそうです。誰かの訳をコピーしてまわした結果ですね。どうして空爆で町が「枯れ木の山」になるなどというあり得ない話を平気で答案に書いたのでしょう?

ブログ再開

何年間かブログを更新していませんでした。その間、ドイツ語教育の話、音楽の話(これが大半)、外国語にまつわる話をFacebookに書いていました。

 久しぶりにブログに戻ってきました。
時々更新しますので、どうぞまたご贔屓のほど、お願いいたします。