2009年12月11日金曜日

見覚えのある顔だと思ったら:樫本大進@ベルリンフィル

ベルリンフィルのコンサートアーカイブ(http://dch.berliner-philharmoniker.de/#/de/concerthall/)にアクセスして、最近のコンサートの模様を見ました。

コンサートマスターの席に座っているのはアジア系のとても好感度の高い青年です。
そのコンマスの顔がクローズアップされるたびに、「見覚えのある顔だな。ごく最近見かけたような顔だ」と思っていたら、何と樫本大進でした!

今年ベルリン放送交響楽団の西宮公演の時にベートーヴェンの協奏曲を演奏したのを見ました。

10年ぐらい前に将来性の高い若者として日本でも有名になった樫本大進ですが、今や世界的なバイオリニストです。

Googleで検索したところ、新聞記事がヒットしました。

http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY200906180441.html

なるほど、ベルリンフィルのコンマスに就任したのですね。

上記の西宮のコンサートの時、弾き終えてからも万雷の拍手が鳴りやまず、樫本さんは何度も舞台に引っぱり出されていました。

いや~、樫本さんの好感度はとっても高いです。

これで有料のベルリンフィルのDigital Concert Hallにアクセスする楽しみがひとつ増えました。

ベルリンフィルの公式サイトの入り口はこちら。

http://www.berliner-philharmoniker.de/

2009年12月7日月曜日

「第九」の四重唱

私は普段あまりベートーヴェンの交響曲を聴かないのですが、授業の流れで(?)ベート-ヴェンの第九交響曲の第四楽章を年末に聴くことになりました。

そこでシラーの"An die Freude"(「歓喜に寄せて」)の原詩(初稿と後の改訂稿の両方)、さらにシラーをベートーヴェンがかなり改作した「第九」用の歌詞を紹介しようと思ったのですが、いざ訳そうとしてみて愕然。:-)

自分でもよく歌っていたこの曲の歌詞、よく考えるとわからない個所がいっぱいあります。

「歓喜よ、美しき神の閃光、楽園の娘よ
我々は炎にのまれながら..」

何気なく歌っていた歌詞ですが、いざとなるといまいちわかりません。

feuertrunken(火に飲まれて)ってどういうことなんでしょう?Götterfunken(神の火花=閃光)とあるからその火花によろけながら、という意味かな?手元にある格調高い訳では「情熱にのまれながら」となっています。でも、どこから「情熱」が出てくるのでしょう?

とまあ考えていたら夜が明けそうなので、とりあえず授業では特定の人の訳を紹介するのはやめて、私なりの解釈で説明することにしました。

あ~、とんでもない詩を選んでしまったな、と少し後悔。(笑)

ところで、第四楽章、私は「歓喜」のメロディーが低弦に始まり、だんだんと高い音域に移ってゆくあたりがたまらなく好きなのですが、この曲、本当に合唱と四重唱は必要だったのかしらと思ってしまいました。

バス(バリトン)の独唱(テオ・アダム盤2種類とディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ盤)およびテノール独唱によるトルコマーチ(ペーター・シュライアー盤二種類とエルンスト・ヘフリガー盤)は聴いていて違和感があまりありません。いや、トルコマーチのところは、とても「歌」とは言えない書法だと思いますが、上記のテノールの二方は実に上手に歌っています。

ところが、四重唱になると「あれ?」

噛み合わない、調和しない、それぞれのパートの良さが出てこない、といったところで少々フラスト気味。音もそれぞれ拡散してしまったように感じられ、調和を感じません。

四重唱のカデンツァ、これもなんだかみんな違う方向を向いているように感じられ、ソプラノが「ハイC」まで上がるところ、ヤノヴィッツ以外はちょっとうるさい気がします。高い「ド」のところで思い切って音を絞って細い声を出してほしいのですが。

で、この曲、作曲者は合唱を入れるまでは良かったものの、四重唱で失敗していません?

もう何種類かの録音を聴いてみることにします。

2009年12月5日土曜日

クリスマスソング

「聖夜」の録音は数え切れないほどありますが、純粋な少年の声もすばらしいです。

http://www.youtube.com/watch?v=4puLybRGSAw&feature=related

(ライプツィヒ・聖トーマス教会少年合唱団の演奏)

ボーイソプラノの独唱のはいったこの演奏も清らかで癒されます。

http://www.youtube.com/watch?v=XNHPGp9CyL0

(「マリアは茨の森を」)

2009年11月22日日曜日

ブロムシュテットのホスピタリティー

さきほど、ザ・シンフォニーホール(大阪)で行われた、ブロムシュテット指揮、チェコフィルハーモニーの演奏会から帰ってきました。

プログラムはドヴォルジャック、交響曲第9番、「新世界から」とブラームス、交響曲第一番というかなりヘビーなものでした。

チェコフィルのコンサートの日程をみると、11月20日東京公演に始まり、岩国とか千葉県松戸市などの地方を巡り、28日名古屋公演まで休みは24日たった一日です。

すごいタフなスケジュールです。

オケのメンバーは、観光を楽しむ時間などないでしょうね。

そんなにタイトなスケジュールなのに、ブロムシュテットは元気で「若く」、とても驚きました。

82歳なのにカクシャクとして、身のこなしも軽やか、足取りもしっかりしていました。

私はオーケストラの世界には疎くて(今もなお疎いです)、いろんな作品を聴いたり、同曲異演を聴き比べるということをほとんどやったことがありません。

その中でブロムシュテットは例外で、30年ぐらい前によく聴いたものでした。

私は大学院生時代、附属図書館でアルバイトをしていました。(時給500円!)、窓口業務のほか、返却された本を閉架式の書庫に戻すという仕事があり、その時地下の書庫でブロムシュテットの演奏を大音響でかけて流していたことを覚えています。

私の世代ではオケものといえばベーム、カラヤンなどを聴いて来た人が多いと思います。

しかし私の場合意外にもブロムシュテットを聴いて育ちました。だからシュターツカペレ・ドレスデンの音は私の中では「デフォルトの響き」なのです。ブロムシュテットのブラームスの第四番などは、私の脳みそに擦りこまれています。

それゆえか、今30年ぶりにブロムシュテットを聴くとある種の「懐かしさ」と「アット・ホームさ」を感じました。

本日座っていたのは正面一階前から5番目の中央でした。

その席からは指揮者の表情もよく見ることができましたし、コンマスの指使いもしっかり盗むことができました。

演奏は、ブラームスの終楽章などもう生命の賛歌という感じまで盛り上がりました。
指揮者が82歳とは信じられない演奏会でした。

誰もが第四楽章の「ソドーシドラーソ~」を待っているとすれば、私は第二楽章でソロバイオリンの入るところを胸をときめかしつつ待っています。もちろん「ソドーシド」も大好きですよ。

第二楽章は、第一楽章のハ短調からかなり遠いホ長調です。重苦しい第一楽章の後、少しは日の光の届く第二楽章、私はこの楽章が大好きです。

アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲」から嬰ハ短調を一曲。

ブロムシュテットは「翁」という称号は似合わない、万年青年だと思います。

ホスピタリティー満点で終演後、オーケストラが退場してしまった後も鳴り止まない拍手に応えて舞台に出てきて挨拶していました。そのとき、ティンパニ奏者一人しか残ってない舞台で「おい、メンバーはどこへ行った?」という身振りをして観衆を笑わせていました。

外にはサインを求めるファンの長い行列ができていました。

私もお願いしたかったのですが、冷たい雨の中だったので諦めて帰りました。

ブロムシュテットの人柄がよくあらわれたコンサートでした。

とても幸せな気分で帰宅することができました。

昨日体調がすぐれずブーニンのリサイタルに行けなかったのは残念でしたが、今日のために体力を蓄えておいて良かったです。

またブロムシュテットをぜひ聴きたいです。

どうか元気で長生きしてください!>ブロムシュテットさん。

2009年11月17日火曜日

Görnes Schubert(ゲルネのシューベルト)

日本ではまだ発売されていないようですが、harmonia mundi から最近レリースされたマティアス・ゲルネのシューベルト歌曲集Vol.4にあたる"Heliopolis"をイギリスから取り寄せました。

このCDにはDVDがついていて、ゲルネとピアニスト、インゴ・メッツマッハー(Ingo Metzmacher)
による録音の様子や両者のインタヴューが収録されています。

ゲルネのリサイタル(10月10日、大阪いずみホール)には先月行ったばかりですが、このCD(+DVD)も買って良かったと思います。彼の飾らない、素朴な姿を見る思いがします。でもその素朴さは限りなく深い思考に裏打ちされていることもわかりました。

リサイタルについてはまだ感想文を書いていないのですが、一言で言うと、「女の愛と生涯」を男性が歌っても、声質さえあっていれば、別におかしくないし、けっこう聴きごたえがあると思いました。(他のシューマン歌曲については後で書くつもりです。)

「男が作詞し、男が作曲した曲を男がうたう」という観点からこの曲集と取り組んだらしいですが、ゲルネの柔らかなヴェルヴェットの手触りを感じさせるような声に「女の愛と生涯」は意外にもあっていたように思います。

リサイタルでびっくりしたのは、この人、体を上下左右ありとあらゆる方向に伸ばして歌うことでした。すでに今年5月のベルリンフィルの演奏会で「エリア」を彼が歌ったのを見ていたので予想はしていましたが、ものすごい体の動かせぶりでした。バレエよりもよく動いている?(笑)

揺れ動くというより伸縮自在の体から声が全方向に放射されるような錯覚に陥ってしまうほどでした。それほど声がよく広がるのでした。

さて、CDのほうですが、まだ全部聴いていませんが、DVDは見ました。

ゲルネの話し声は実はけっこう高くて、話し声からすると「テノール」ではないかと思えるほどなのです。でも、実際の歌ではバス・バリトンですよね?これがまた不思議。

ピアニストとの打ち合わせも「そこまでやるか!」と思うほど入念です。

DVDに収録されているのは「春の想い」("Der Frühlingsglaube")という曲なのですが、この曲、実は私が歌のレッスンを受けるようになって(といっても、まだ一年ちょっと前なんですが:-))最初に手がけたドイツ歌曲です。

「春の想い」は数ヶ月やってみましたが、結局完成させることができず、ペンディング状態になっていました。

私は、仕事に復帰して新たな曲を練習する余裕がなくなったところで、ちょうどこの曲に戻って来たばかりです。キッチンで夕食の用意をしながら、"Die lineden Lüfte sind erwacht.."と小声で歌っています。(笑)


「一筆書き」するような冒頭のメロディーラインとか、"Nun, armes Herz, sei nicht bang!"(「さあ、希望の乏しい心よ、恐れないで!」と自分の心にやさしく話しかけるようなニュアンスを表現できませんでした。

(なお、「希望の乏しい」は超意訳です、普通は「貧しい、哀れな」です。私はここを冬の間、氷や雪に閉ざされた自然同様、あわれにも、希望が乏しくなってしまったわが心」と解釈しました。「やっと春が来て万物が花開き、すべてがあらゆるところで創造をはじめる、だからおそれずに心を開いて!」と語りかけているように私は感じます。)

ゲルネは体を大きく動かしながらメロディーを作ってゆきます。こっちまで一緒に踊りながら歌いたくなるほどです。

声楽のレッスンでは、たった二つの音をつなぐだけなのになぜ何度もやり直ししなきゃいけないんだろう、なんて思うこともしばしばだったのですが、歌を完成させるというのは途方もなく難しいということを理解しました。フレーズひとつにしても何十回も練習してもうまく歌えないことがありました、いや、あります、と現在形にしておきましょう。

ゲルネの歌詞、響きに対するこだわりはDVDを見ているとよくわかります。

歌うことの難しさ、その練習の地味さを痛感させてくれるDVDでした。

しかし、この「ゲルネ踊り」、真似をし始めたらやめられません。明日DVDを見ながら一緒に体をゆすって歌ってみようっと。:-)

2009年10月23日金曜日

ピアニスト兼指揮者

ベルリンフィルの"Digital Concer Hall"というコンサートの生中継プラスアーカイブサイトから演奏会ごとにメールが来ます。
10月4日、ダニエル・バレンボイムが「ピアニスト」として登場し、ショパンの協奏曲を二曲とも一夜で弾くというびっくりするような演奏会が行われたので、さすがに生中継は日本では夜中なので見ないけれど、後日録画を見ようと思っていたらいきなりベリリンフルのコンサート担当からメールが来て、「バレンボイムはコンサートのライブ中継を拒否した」という知らせがありました。
どうやらライブ中継は拒否するが後日アーカイブに保存することは拒否しなかったようで、今なら全曲試聴できます。ただし、有料です。
ショパンの協奏曲2曲、聴くだけでもかなり疲れるのによくまあ演奏したものです。今年67歳になるバレンボイムですが、指揮者としてもピアニストとしても現役であることを確かめさせてくれました。
彼のショパン解釈は必ずしも私の好むところではありません(ちょっと濃い味なのとペダリングの好きでないところがある)が、よく二曲快演したものだと驚きます。
ピアニストから指揮者に転向する音楽家はけっこう多くて、クリストフ・エッシェンバッハもその典型例です。私は彼のシューベルトやシューマン、それにモーツアルトのピアノ演奏がぞっとするほど好き(笑)で、テンポの遅い楽章のさらなる「遅さ」には驚きふるえながらも最後まで聴いてしまいます。
エッシェンバッハに関して残念なのは、「私はもうピアノリサイタルをやらない」とかなり前に公言しており、ピアニストとしての彼は室内楽のメンバーか歌曲の伴奏者としてしかほとんど見ることができないことです。
昨年5月にフィラデルフィア管弦楽団の指揮者として来日した折、多忙な日程の合間に若手バイオリニスト、エリ・シューマンとのデュオコンサートを開きました。ベートーヴェン、ブラームス、クライスラーなど、どれをとっても室内楽奏者としての配慮にみちた好ましい演奏でした。
ブラームスのバイオリンソナタ第二番の冒頭部分、あまりにソフトなピアノの音で始まったので、一瞬何だかわかりませんでした。私はブラームスのこの曲、ピアノ、バイオリンの両方で練習しましたが、ピアノのパートは本当に難しく、下手をするとバイオリンを圧倒してしまうことを知っていました。
でも、エッシェンバッハはきめ細かなサポートぶりを見せて、若くて真面目そうなエリック・シューマンを引き立てていました。
おっと、脱線しました。
エッシェンバッハが今やピアニストとして登場することが少なくなったのに対し、バレンボイムは頑張っています。アシュケナージも指揮とピアノを両立しているように思います。
バレンボイムにはある種のタフさ、強さがあって、時に音楽が猛烈に重くなったり、上記のショパンの作品のように濃い味になったりするのですが、それでも最後まで聴かされてしまいます。
最近の転向組では、プレトニェフがいますが、この人はピアニストに留まったほうがいいと思います。でも、将来立派な指揮者になる可能性もゼロではないと思います。
バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハ、この三人とも歌曲の伴奏者として現役であることがCDやDVDで証明されています。
マティアス・ゲルネはアシュケナージとシューマンの歌曲を、エッシェンバッハとはシューベルトの「水車小屋」を録音しており、バレンボイムはトーマス・クヴァストホフとシューベルトの「冬の旅」をDVDに記録しています。
ここにあげたバレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハはすでに年齢的には60代後半か70代はじめですが、まだまだピアニストとしても指揮者としても最盛期を保てるものと期待しています。
しかし、どうしてバレンボイムはコンサートの生中継を拒否したのでしょう?
まさか自信がなかったから、とは思えません。本当のところを知りたいです
そうそう、画像を見てとても面白かったのは、バレンボイムは指揮台に指揮者がいるにもかかわらず、顎でオケに指示を出しているように見えたことです。本人は弾き振りのつもりだったのかもしれません。
一番の協奏曲の最後のところ、ピアノを弾き終えたあと、オケに向って大きく腕をあげて「指揮」をしていました。(笑)
当のベルリンフィルのDigital Concer Hall は以下のところにあります。
Digital Concert Hall

2009年10月20日火曜日

「森の孤独」(Waldeinsamkeit)

「森の孤独」(Waldeinsamkeit)と言えば、ロマン派の音楽の愛好家ならシューマンの「リーダークライス Op.39」の冒頭の曲、「異郷にて」(In der Fremde)を思い出すでしょう。

ドイツ文学で「森の孤独」を詠った作品としてアイヒェンドルフ(1788-1857)やハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)の詩が有名ですが、この"Waldeinsamkeit"という造語はルートヴィッヒ・ティーク(1773-1853)によるものでした。

私は卒論でティークの『ブロンドのエックベルト』について書きました。もう30年近く昔のことです。(笑)

ティークにおいて「森の孤独」は破壊的、魔的な恐ろしさを秘めながらも、誰も知る人はいないという解放感にみちたものでした。

アイヒェンドルフにおいては魔的な要素は少なくなりますが、よりロマン的な情緒をたたえていると思います。(「ロマン的」の定義に関してはまたそのうちに。:-))

私はこの曲がなぜかたまらなく好きです。決して派手な作品ではないのですが、孤独と解放感の両方をしみじみと感じることができるからです。

だいたいの意味を口語で書きますと、

「赤い稲妻の走る彼方の故郷から

雲がただよって来る。

でも父も母も遠い昔に亡くなり、

故郷では誰も私を知らない。

間もなく、ああ、間もなく静かな時がやって来る。

そしてその時私もまた憩う。そして私の上には

美しい森の孤独が音をたてている、

そしてここにおいてもまた誰も私を知らない。」

メロディーはほとんど隣の音に移るだけ(半音か全音の進行)で、9-10小節目、12-13小節目、16-17小節目にかけて、そして24節目に音の飛躍があるだけです。あとは延々と二度の進行です。

「間もなく、ああ、間もなく静かな時がやって来る。」(ここでメロディーには4度、6度の飛躍が見られます)のところで期待感をふくらませ、そして続く「その時私もまた憩う」で長調に転じて小さなクライマックスに至り、同じ「そしてその時私もまた憩う」を今度は短調でほのかな寂しさをこめて繰り返します。

このあたりになると私は胸にジーンと熱いものを感じてしまいます。こんなにシンプルな音楽なのになぜ?

それは言葉と音が非常にうまく調和しているからではないかと思います。「その時私も憩う」(da ruhe ich auch)のauchで「(ダー ルーエ イヒ) アァーォホ」(日本語のカナでドイツ語の音を書くのは無理ですのでカタカナは近似値あるいはそれ以下と思ってください)のクレッシエンドが何とも気持いいのです。

auch(アァーォホ)と言いながらぐっと自分の声を解放するような感覚がたまりません。

言葉が音とうまく結びついて独自の感興を生み出すところが他にもたくさんあります。

ところで、この曲の演奏、私は30年以上前に発売された時にドイツから個人輸入したレコード(シューマン歌曲集、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウのバリトン、クリストフ・エッシェンバッハのピアノ)を聴いてきました。CD化されてからも何百回もこの演奏を聴きました。

そしてこの曲の演奏はフィッシャー・ディースカウとエッシェンバッハでなければどうしても満足できませんでした。それはこちらの演奏です。

http://www.youtube.com/watch?v=FyL8n900RPk&feature=related

(Fischer-Dieskau, Eschenbach)

フィッシャー・ディースカウはほかのピアニストとの録音もあり、こちらギュンター・ヴァイセンボルンとの共演もなかなかです。

http://www.youtube.com/watch?v=4krruPr6KeA&feature=related

でも、私は1970年代に録音された、エッシェンバッハとの共演のほうが好きです。ピアノが細かいニュアンスをあますところなく表現していて本当に美しいのです。あとこの人のピアノには「孤独」、「憧れ」、「内面性」といったものが非常に豊かだからです。

先日マティアス・ゲルネのリサイタルでもこの曲が歌われていましたが、フィッシャー・ディースカウから離れられない私にはもの足りないのではないかと心配したのですが、実際にはフィッシャー・ディースカウとはまた違った味わいを感じました。

以下のリンクはゲルネの演奏です。ここでは原調(嬰ヘ単調)より全音下げてホ短調で歌っていますが、リサイタルではたしか原調だったと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=FyL8n900RPk&feature=related

音と言葉の調和を考えていると無数の雑文を書きたくなります。楽譜を書き込めないのが残念です。

2009年10月12日月曜日

たかがコロン(:)、されどコロン(:)

最初から重箱の隅をつつくような細かい話で恐縮ですが、シューベルトの「冬の旅」(Winterreise)の第一曲、「おやすみ」(Gute Nacht)を聴いてかなり以前から感じていたことをひとつ。

恋に破れた男が寂しく町を去って行くのですが、恋した娘への思いを断ち切れず、通りがかりに彼女の家の戸に「おやすみ」と書いてゆく、というおセンチな話で始まります。

この「通りがかりに、家の戸に君宛に『おやすみ』と書いておこう」(Schreib' im Vorübergehen

Ans Tor dir: "Gute Nacht"....)

ここ"Gute Nacht"の前のコロン(:)をきっちり意識して歌っている声楽家がいることに気付きました。

つまり、

Schreib' im Vorübergehen(通りがかりに書こう)

Ans Tor dir (君のために扉に)

の後に本当に聴き取れるか聞き取れないか寸前の短い「間」を置いて歌う人がいて、そのあまりの几帳面さと歌詞に対する配慮に感動しました。

私が今聴いているのはトーマス・グヴァストホフ(Thomas Quasthoff)の古いほうの録音ですが、この人の歌詞の扱いは本当に丁寧です。コロンの後のいわば「引用」、あるいは「台詞」に入る前に僅かな間をとって、さらに"Gute Nacht"(おやすみ)をこれまたごくごく控えめに音色を変えて、いかにも優しく歌っています。

こんなに丁寧に歌うのはクヴァストホフだけかと思ったのですが、マティアス・ゲルネ(Matthias Görne, 10月10日のコンサートに行きました!感想はいずれ。)の古い録音(ブレンデルとの共演でないほう)と、ペーター・シュライアーのリヒテルとの共演盤を聴いてみると、いずれも本当に気がつかないほどですが音色を変えたり、小さな隙間を作っているようです。シュライアー、ゲルネともに一回目の「おやすみ」はかなり明瞭に間を置いているように思います。2度目は一息に歌っているようですが。

ゲルネやクヴァストホフの師匠のフィッシャー=ディースカウの古いバージョンは手元にないのですが、ブレンデルとの共演盤では残念ながら一息で歌っています。フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」は、60年代の録音のほうが私は好きなのですが、今行方不明のためいずれ確認してみます。

ちなみにヘルムート・ホルは露骨なぐらいはっきりと間をあけて歌っています。

こんな小さなことですが、歌を練習する時には歌詞の意味やそこにこめられた想いに思いをめぐらすのは大事だと思います。

私はヴォイストレーニングとして約1年前から声楽の先生に師事していますが、歌詞を味わい、そして音として丁寧に表現することを学んでいます。

ドイツ語は私にとっては本業と直接結びついた言葉ですが、話すドイツ語と歌うドイツ語にはかなりの隔たりを感じます。

ドイツリートを注意深く聴いていると、歌を一曲仕上げるには途方もなく丁寧に練習しないといけないことがわかります。

たかがコロン(:)ですが、されどコロン(:)なのです。

細かい話で失礼致しました。

復職記念にブログ開設

慢性疲労症候群という難病で長らく休職していましたが、2009年10月1日をもって無事復職しました。

職場ではかなり「浦島花子」になっていますが、教える楽しみを再び持つことができて幸せです。

インターネット日記は1996年から断続的に書いておりましが、今回の病気休職中は更新できませんでした。(http://www.k2r.org/malte 旧ホームページ)

この機会に日常生活で感じたことを書き連ねてみようかと思います。

テーマは「音楽」と「言語」の予定ですが、さまざまなつぶやきを書いてみたいと思います。

不定期更新で、目下のところコメント機能をオフにしてあります。ご意見などはどうぞ malte@k2r.orgへお願い致します。